(日記を載せる実験として、自分の過去のmixiの日記をあげたいと思います。)
感受性の純粋性というものがある。
こんな話がある。
あるセラピストの体験談を読んだことがあるのだが、その人いわく、彼がセミナーで「潜在意識」とかの話をして、講義が終わったあとにそのセラ ピストに近づいてきて
「要するに先程の話は「共感覚」のことですよね?」とか
「先程話されていた話しは「バックトラッキング」とどうちがうのですか?」
などといった質問を投げかけるお客さんが必ずひとりはいるらしい。
それはどこにでもある風景ではあるが、でもそのセラピスト曰く、中には質問に見せかけて「自分のほうがよく知っている」というアピールをした くてあえてそういった専門用語を使って話してくる人もいるようなのだ。
実際のところ、その質問(にみせかけたアピール)をした人はそのセラピストにも負けずおとらない知識を持っているかもしれないが、そういう人 に限って実際の生活の中でセミナーの内容が生かされないという。
それは、知識が豊富であるが故にせっかく大金を払って聞いた話を「すでに自分が知っている何か」に置き換えて「要するにこういう事でしょう」 というふうにとらえてしまい、せっかくの学びの機会を単なる「すでに知っていた知識を確認するためだけの場」にしてしまっているということだ。
過去に学んだ自分の知識や経験に照らし合わせて、それに合致するものがあったらその時点で「考える事をやめてしまう」のだ。
ちなみに逆に心理学とかそういった知識が全くない人ほど、セラピストの話を一生懸命聞くし、なにか今まであった別の概念に置き換えて理解する ようなことはしないので、そこで学んだ内容がその人自身のものになる確率が高いらしい。
ここで言えることは、知識が乏しい方が「今、この瞬間」をリアルに感じることが出来るということだ。
僕自身も数ヶ月前にそのことは身を持って体感した。
ニューヨークへ行った時だ。
友人の家に泊まらせもらってはいたが友人も多忙な日々を送っていたので、基本的には自分ひとりで街をうろついていたのだが、今考えてみたらあ の時の感受性の発揮の仕方といったら異常だった。
でもそれだけ感覚が開くのも当たり前だ。
だって、言葉通じない。道分からない。人が違う。本当に物乞いがいる。ゲイがいる。…てな感じで実際にその場所で行ってみたら、初体験ばっか りで、たよるべき知識とかそんなのほとんどなかったに等しいから。
もうアンテナが自動的にビンビンになっていた。
でも、そのおかげであの18日間は僕にとってひとつのターニングポイントと言っても過言ではないだろうと言えるくらい色々な事を感じて、色々 な考え方をできるようになった。
とまあこんな感じで、知識や経験が乏しい方が「今、この瞬間」をリアルに感じることが出来るというのは、僕は芸術分野でも言えることだと思う のだ。
実はそれは以前行った個展の作品を見る人の傾向を見てわかってきた。
今回の個展でだしている作品は、前回別のグループ展に出した作品と基本的な機構は同じ作品なのだが、その2回の展覧会を通してみてみると結構 幅広い人が観に来てくれている。
4歳くらいの子ども見てくれたし、まったくアートとかわかんないおじさんや、アート大好きなおばさま、昔の前衛的なアート界で活躍していたよ うな人まで観に来てくださっている。
ちなみに僕が今回出している作品は、水面に水滴が落ちてくる装置を作って、その水滴が落ちて生じる波紋が広がる様子が壁に映っているゆったり としたヒーリング系(?)な映像に直接影響を与えるというものだ。結構幻想的なイメージ。
お客さんに感想を聞いても、98%くらいの確率で「幻想的で楽しい」とか「時間を忘れて長く見てしまう」とかとかそういう感想が帰ってくる。
小さい子供だろうが、おばあさんだろうが、そういった感想は言葉は違えどほとんど変わらない。
アート作品って結構見る人によってばらばらな印象だけど、今回の作品はターゲットの幅が広く、もたれる印象にばらつきがかなり少ない作品のよ うだ。
ここで面白いのは、全員とは言わないが極稀にいるアートに深く精通していている人に限って、そういう見方をできないことが多いということだ。
「こういう作品はすでに何十年も前のアーティストの誰々がやっていてね、、、うんぬんかんぬん」
というふうに、「今」その作品をみて何かを感じることより、過去に学んだ自分の知識や経験に照らし合わせて、それに合致するものがあったらそ の時点で「感じる事をやめてしまっている」のだ。
アートを見る目が「何かを感じるため」ではなく「批評するため」に変換されてしまったために、逆にその作品の本質を捉えることができなくなっ てしまっている。
おそらくはその方も最初にアートを始めたときは、当時の前衛的な作品をみて大きな衝撃と感動を与えられて始めたのだと思う。何かを「感じた」 から始めたはずだ。
だが、知識や経験がついて行くうちに、「感じる」より先に理論で全てを理解したつもりになってしまっているのだとおもうのだ。そうやって作品 に対する感受性が鈍っていく。
最初に見た時のなんの隔たりもない純粋な感受性というものが、その道に精通すればするほどなくなっていく場合がある。
その道に精通した人間が好きなものが、一般人には全く理解できないものであったりするという事もよくあることだ。
挙句の果てに、人を感動させるためのものが、自分ひとりを感動させるものに成り果ててしまっているケースも有る。
デザイナー業界は全体としてそういう事を敵と見なす傾向は割と強いと思うけど、芸術の場合は見方が多様化しすぎていて、たしかにそれをどう捉 えるかは人それぞれだとは思うが、もともと単純明快なはずの「良い作品」の定義をゆがめすぎるのもどうかと思う今日この頃です。
道を極めて行くことは素晴らしいことだと思うし、脈々と受け継がれ歴史が深まっているからこそ醸し出せる密度のある雰囲気とか、一般の人が無 意識のうちに認識していて直接的にはなかなかわからない歴史ある作品の厚みとか、そういうのは間違いなくある。
論理的な思考も必要ですし、批評をうけることでアーティストがのびるのは事実で、そういう意見を聞いてありがたかったのは確かなのですが、批 評する側もアーティストと一緒で、論理的でマニアックな視点だけではなくそういった「感受性の純粋性(初心ともいえるかもしれない)」を保ちながら批評を おこなうべきだと思っています。
Visual Creator
石黒翔
参考文献:http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E5%BF%83%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%A4%96%E3%81%97%E6%96%B9%EF%BD%9E%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%81%A8%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AB%E5%8A%B9%E3%81%8F7%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%BF%83%E7%90%86%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%94%E3%83%BC%EF%BD%9E-%E7%9F%B3%E4%BA%95-%E8%A3%95%E4%B9%8B/dp/4894512440
1 件のコメント:
翔くんありがとう!
ちなみにだけど、ブログのカスタマイズした?
文字とか背景色かえたのかな。
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