2010-03-28

あたらしい会議の名前を募集します。(続編!)


現在、N Labではスカイプ会議にかわる"あたらしい会議の名前"も募集している。
今回は、これまでに応募があったネーミングの紹介をしたい。
まだの人は是非これらの提案を参考に創造的なネーミングを考えて応募してみて欲しい。




上の提案を参考にまだの人は下のフォームから応募して欲しい。
応募の基準など詳しいことはこちらの記事を参考に。

※応募の締め切りは31日です。みんなからの応募(提案)が少ない場合は期間延長も考えていますが、
4月8日(次回のスカイプ会議の前)までには決めたいと思います。協力よろしくです。




以下、応募フォーム






以上。

何か不明な点、意見などがあればN Labのメーリングリストにポストするか、
このブログにコメントをして頂けると助かります。
よろしく。





2010-03-27

どっちが使い易い?(投票編)

先日、N Labで使っていくブログの使いやすさを試して欲しいというお願いをした。
まで試していない人はこちらの記事を一読して欲しい。

さて、もう見比べてくれた人にはどちらが使いやすかったか(使いやすそうか)を教えてもらいたい。
そこで、下に簡単な投票フォームを作ってみた。アンケート気分で回答してくれると嬉しい。
回答結果はすぐにリアルタイムに見れるようにしている。
回答期限については、今のところは「あたらしい会議の名前の募集」と同時にしたいと考えている。
※ちなみに「あたらしい会議の名前の募集」期限は3月31日です。!まだの人よろしくです。
今のところSHOHくんとえんちゃんが回答してくれています。


以上、よろしく。








大学で書いたレポート。。。が出てきた。

僕も一応、大学というところに行ってました。ドロップアウトしちゃったけど・・・。
どうやらアカデミックなところには収まりきらないみたいです。
でも、ちゃんと?レポートとか書いてたみたいです。
ドキュメントをあさったら出てきたので載せてみます。

まともなこと言ってるように見えますが戯言です。


以下、転載。


「ローカルコミュニティーにおける保健医療福祉のありかたを学ぶ」

ローカルコミュニティー。
これはどんな国にも都市にも町にも存在している。
そこに人が住んでいるなら構成されずはずの一つの集まり、社会の体系を指す言葉である。
これらのコミュニティーには、そこに集う人々の関係において医療、福祉、公衆衛生などの
社会保障的なかかわりや教育、文化、芸術、伝統などの人を築き繋げる役割、消費や生産の
ように需要と供給の関係によって成り立つシステムなどが存在している。

これはいつの時代も、誰かによって構築されなくとも自然と造られて来たコミュニティーにおけるシステムであろう。
人々は誰かに言われるまでも無く、互いに連携し、良く協力し合うものだ。
その場の環境がそうさせる場合もあるが、人間は本来コミュニティーという相互の関係の中で成長し
成熟し生命を営むというサイクルを繰り返してきているからだろう。
必然的に相互の関係は生じるのである。連携ということを考えてみても、それは、ごく自然に
行われて来た人々のコミュニケーションの一つであると考えることが出来るかもしれない。

コミュニティーの中では、自然のうちに、つまり何らかの情報共有のシステムが構築されて
いなくても情報がお互いに共有されている。特に、日本の様な調和を意識する国民性においては、
隣り近所の情報は常に共有されている。現在は、その傾向が薄れつつあるというが学校や職場に
おいても、周りを意識する傾向は和を示す一つの要素と言えるだろう。
これが自分の行動にとって、そして社会にとってその成長と発展を促すものになるかどうかは別だが、
周囲を意識しながら行動することは、和、調和を保つ上で重要なことなのかもしれない。

しかし、なぜこの和、調和、そこから発展して連携というものが保健医療福祉において重要であると言われるのであろうか。
そして、これらは保健医療福祉にとってとりわけ重要なことなのであろうか。
前置きが長くなったが、これらのことについて少し考えてみたい。

自身が感じるには、特に自分の栄養という領域でもあることだが、連携と言いながら何も
連携できていないように感じる。実際に社会に出て仕事をしたわけでは無いが、授業や実習を
やっていて常に感じることは、自分で考え、その考えによって行動することが少ない。
ただ決められたことをその通りにこなす。授業や実習を受動的にこなす。これは、アカデミックの
精神が無いということで解決してしまう方法もあるが、それだけでは片付けることの出来ない
問題のように思うのだ。

何故か。考える力がない。発想する力がない。想像力がない。これは、物事を行う上で
必要となる基礎的な能力が無いのと同じことである。特に、保健、医療、福祉これらの分野は
今後大きく発展しなければ若しくは大きく方向転換を求められる時期が来ることだろう。
その新たな方向性を導き出すのが今、この大学で学んでいる学生たちに課せられている大きな責任だろう。
そうなったとき、従来の方法でしか物事を行えない。つまり、同じことを繰り返す。決められた事を
効率的に行う事において、高い能力を持っていた人でも、これらを大きく発展させる転換させる発想は
生まれる事はないであろう。それらの人には、発想する、想像する。そして自ら行動するという能力が
ないか、若しくは衰退している状態にあるからである。連携とは、自分自身で物事を進んで考え、
新たな発想、創造、能動的に行動する過程の中で生まれてくるものであると確信している。
ただ言われているから、規則だから、ルールだから、そうゆうやり方が方法が確立されているからやる。
これでは何の意味もない。そして、そのような考えでの連携は本当の連携とは言えない。
連携とは一種の繋がりであって、個と個が線によって結ばれるものである。個(自分)、個(他人)が
線という目に見えない引力によって引き合わされる中で生まれる。これがつながりだろう。
個は個でしっかり存在し。また、引き合った個もそれを打ち消しあってはいない。逆に合わさることで、
繋がることで。広がりを見せることも、長さをまして成長することも出来る。それによってより多角的に
物事を見たり、もっと大きな視点で物事を見ることもできるし、見るだけでなく行動するときも
その行動範囲を広げる力となる。

連携に置いて一番大切なことは、繋がること。個を個としてみること。
もしかするとこんなにも単純なことなことなのかもしれない。でも実践するのは中々難しいだろう。
どこから実践していいかわからない。これが現実にあるからだ。
連携を実践しましょう。なんていわれても「何処で」って聞き返したくなる。就職してからとか
何か学んだ知識や技術を使う時が来たらと言うのが一般的な答えかもしれない。でもそれからでは、
いきなり連携しろって言われても連携が出来るわけが無い。今まで連携の概念は知っていても、
実際に連携することを経験していないからである。つまり、繋がり、行動することを経験していないから
できるはずが無い。

じゃいつ経験するのか?

答えは今だ。
この大学生活という最高の時間の中で実践すべきだ。

つまり、学んだことを知識だけでなく活用する。これによって人はその事柄への理解をより一層深め、
自己に浸透させることができるからだ。連携する力は、繋がる力、考える力、発想するちから、創造する力、
そして行動する力だろう。本当の意味での連携はこの身近なところつまりコミュニティーにある。
この町に来た大学生として、そして時間という最高の贈り物を与えられた一人として、
無駄に過ごすことがないようにしたい。

地域における保健医療福祉の連携のあり方も自分たちが今、この地で何をするかによって
今後の方向性が大きく決まってくるのかもしれない。新たな概念が生まれたり、新たなプロジェクトや
ビジネスのあり方が生まれるかもしれない。どちらにしろそれは、今の僕たちが、与えられた時間を
どの様に使うかにかかっている。この町に来た意義、そして僕らがこの大学に来ている意義を考えた時、
ここから行動を起こす必要性を強く感じた。


以上。


とまぁこんな事を書いておきながら肝心な提出期限を守らないという愚行を繰り返した本人であった。
それどころか学校いかなくなるという本末転倒な人生を選んだわけである。(苦笑

2010-03-26

感受性の純粋性について (過去のmixiの日記より)

(日記を載せる実験として、自分の過去のmixiの日記をあげたいと思います。)



感受性の純粋性というものがある。


こんな話がある。

あるセラピストの体験談を読んだことがあるのだが、その人いわく、彼がセミナーで「潜在意識」とかの話をして、講義が終わったあとにそのセラ ピストに近づいてきて

「要するに先程の話は「共感覚」のことですよね?」とか

「先程話されていた話しは「バックトラッキング」とどうちがうのですか?」

などといった質問を投げかけるお客さんが必ずひとりはいるらしい。

それはどこにでもある風景ではあるが、でもそのセラピスト曰く、中には質問に見せかけて「自分のほうがよく知っている」というアピールをした くてあえてそういった専門用語を使って話してくる人もいるようなのだ。

実際のところ、その質問(にみせかけたアピール)をした人はそのセラピストにも負けずおとらない知識を持っているかもしれないが、そういう人 に限って実際の生活の中でセミナーの内容が生かされないという。

それは、知識が豊富であるが故にせっかく大金を払って聞いた話を「すでに自分が知っている何か」に置き換えて「要するにこういう事でしょう」 というふうにとらえてしまい、せっかくの学びの機会を単なる「すでに知っていた知識を確認するためだけの場」にしてしまっているということだ。

過去に学んだ自分の知識や経験に照らし合わせて、それに合致するものがあったらその時点で「考える事をやめてしまう」のだ。

ちなみに逆に心理学とかそういった知識が全くない人ほど、セラピストの話を一生懸命聞くし、なにか今まであった別の概念に置き換えて理解する ようなことはしないので、そこで学んだ内容がその人自身のものになる確率が高いらしい。



ここで言えることは、知識が乏しい方が「今、この瞬間」をリアルに感じることが出来るということだ。



僕自身も数ヶ月前にそのことは身を持って体感した。

ニューヨークへ行った時だ。

友人の家に泊まらせもらってはいたが友人も多忙な日々を送っていたので、基本的には自分ひとりで街をうろついていたのだが、今考えてみたらあ の時の感受性の発揮の仕方といったら異常だった。

でもそれだけ感覚が開くのも当たり前だ。

だって、言葉通じない。道分からない。人が違う。本当に物乞いがいる。ゲイがいる。…てな感じで実際にその場所で行ってみたら、初体験ばっか りで、たよるべき知識とかそんなのほとんどなかったに等しいから。

もうアンテナが自動的にビンビンになっていた。

でも、そのおかげであの18日間は僕にとってひとつのターニングポイントと言っても過言ではないだろうと言えるくらい色々な事を感じて、色々 な考え方をできるようになった。




とまあこんな感じで、知識や経験が乏しい方が「今、この瞬間」をリアルに感じることが出来るというのは、僕は芸術分野でも言えることだと思う のだ。


実はそれは以前行った個展の作品を見る人の傾向を見てわかってきた。


今回の個展でだしている作品は、前回別のグループ展に出した作品と基本的な機構は同じ作品なのだが、その2回の展覧会を通してみてみると結構 幅広い人が観に来てくれている。

4歳くらいの子ども見てくれたし、まったくアートとかわかんないおじさんや、アート大好きなおばさま、昔の前衛的なアート界で活躍していたよ うな人まで観に来てくださっている。


ちなみに僕が今回出している作品は、水面に水滴が落ちてくる装置を作って、その水滴が落ちて生じる波紋が広がる様子が壁に映っているゆったり としたヒーリング系(?)な映像に直接影響を与えるというものだ。結構幻想的なイメージ。

お客さんに感想を聞いても、98%くらいの確率で「幻想的で楽しい」とか「時間を忘れて長く見てしまう」とかとかそういう感想が帰ってくる。

小さい子供だろうが、おばあさんだろうが、そういった感想は言葉は違えどほとんど変わらない。

アート作品って結構見る人によってばらばらな印象だけど、今回の作品はターゲットの幅が広く、もたれる印象にばらつきがかなり少ない作品のよ うだ。



ここで面白いのは、全員とは言わないが極稀にいるアートに深く精通していている人に限って、そういう見方をできないことが多いということだ。

「こういう作品はすでに何十年も前のアーティストの誰々がやっていてね、、、うんぬんかんぬん」

というふうに、「今」その作品をみて何かを感じることより、過去に学んだ自分の知識や経験に照らし合わせて、それに合致するものがあったらそ の時点で「感じる事をやめてしまっている」のだ。

アートを見る目が「何かを感じるため」ではなく「批評するため」に変換されてしまったために、逆にその作品の本質を捉えることができなくなっ てしまっている。

おそらくはその方も最初にアートを始めたときは、当時の前衛的な作品をみて大きな衝撃と感動を与えられて始めたのだと思う。何かを「感じた」 から始めたはずだ。

だが、知識や経験がついて行くうちに、「感じる」より先に理論で全てを理解したつもりになってしまっているのだとおもうのだ。そうやって作品 に対する感受性が鈍っていく。



最初に見た時のなんの隔たりもない純粋な感受性というものが、その道に精通すればするほどなくなっていく場合がある。

その道に精通した人間が好きなものが、一般人には全く理解できないものであったりするという事もよくあることだ。

挙句の果てに、人を感動させるためのものが、自分ひとりを感動させるものに成り果ててしまっているケースも有る。



デザイナー業界は全体としてそういう事を敵と見なす傾向は割と強いと思うけど、芸術の場合は見方が多様化しすぎていて、たしかにそれをどう捉 えるかは人それぞれだとは思うが、もともと単純明快なはずの「良い作品」の定義をゆがめすぎるのもどうかと思う今日この頃です。

道を極めて行くことは素晴らしいことだと思うし、脈々と受け継がれ歴史が深まっているからこそ醸し出せる密度のある雰囲気とか、一般の人が無 意識のうちに認識していて直接的にはなかなかわからない歴史ある作品の厚みとか、そういうのは間違いなくある。

論理的な思考も必要ですし、批評をうけることでアーティストがのびるのは事実で、そういう意見を聞いてありがたかったのは確かなのですが、批 評する側もアーティストと一緒で、論理的でマニアックな視点だけではなくそういった「感受性の純粋性(初心ともいえるかもしれない)」を保ちながら批評を おこなうべきだと思っています。



Visual Creator

石黒翔




参考文献:http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E5%BF%83%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%A4%96%E3%81%97%E6%96%B9%EF%BD%9E%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%81%A8%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AB%E5%8A%B9%E3%81%8F7%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%BF%83%E7%90%86%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%94%E3%83%BC%EF%BD%9E-%E7%9F%B3%E4%BA%95-%E8%A3%95%E4%B9%8B/dp/4894512440

2010-03-25

どっちが使い易い?

今、N Labではメンバーブログを試している。
このBloggerはてなにそれぞれブログを開設してどっちが使い易いのか試しに使ってみている。

そこで、メンバーにもぜひその使いやすさを試してもらいたい。
MLにも書いたがそれぞれのブログの特徴をここに書きたい。

グーグルのブログで世間にブログを広めた先駆け的なブログツールだ。
非常にシンプルなインターフェースで基本的な機能は充実している。
最も便利なのは拡張性に飛んでいる。外部の様々なウィジェットなどを
埋め込むことも可能だ。
さらに、みんなのGoogleアカウントで気軽にログインでき、記事を投稿
できる仕組みだ。
※メンバーはすでに送っている「投稿者への招待」メールを承認すれば
今すぐに投稿が可能。


日本のグーグル。シンプルで機能性にとんだインターフェースが特徴。
日本人には使い易いブログかもしれない。また、他のはてなサービスとも
連動しているのではてなユーザーには使い易い。
ただし、メンバーはN Labのアカウントを入れないと入れない。


以上が主な特徴になるけど、まずは一度使ってみて欲しい。
それから感想を聞かせて欲しい。
その上でみんなが使い易いと思う方を採用したいと思う。



以上、フィードバックよろしくです。

2010-03-21

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はてなには埋め込めなかったのでこっちに入れてみました。
右のサイドバーをみてもらえるとわかります。

ただし、このブログがあまり使わないつもりなので・・・。
こゆーのも出来るんだなぁ~と参考までに。